半眼酔眼

ねぼけまなこで。

ビールを飲む

酒が呑めない酒呑みというのはなかなか辛いもので、塀に上がれなくなった猫もさぞや辛いものだろうと思う。ただ猫と違うのは、この馬鹿馬鹿しい胸中の不自由さを、ことばにして吐き出す自由を持っているところだ。

 

ビールを初めて美味いと思った時の話をしたい。

 

和歌山県の南端に串本という町がある。漁業の盛んなところで、人々の発する言葉も外洋の波に洗われているせいか荒削りで飾りがない。日本最南端と言われる岬から見下ろす水面は、青黒い。岸から間もなく深さを増すのだろう、覗きこむと髪を掴まれて逆さまに落ちていきそうな怖さがある。大学1年生の夏に、そこに行った。

 

1年生の私はひどく臆病で、誰かに嫌われやしないかと始終気にしていた。この串本行きの旅行にしたところで、サークルの荒くれ者の先輩たちが「鈍行電車で海を見に行こうぜ」と酒で赤く血走った目で迫るので、その剣幕の恐ろしさに頷いてしまったせいだ。そんな私にとって卒業間近の先輩たちと自分一人というメンバーは苦痛ではあったが、高校時代には考えもしなかったような馬鹿馬鹿しいこの旅の魅力には勝てなかった。

 

鈍行列車で10時間余り。串本駅に着いた時には陽は高く昇っていた。寝ぼけ眼に無精髭の我々には夏の太陽はいささか眩しすぎ、目を細めながら駅前のしなびた食堂に入った。胸の先端が褪色して薄桃色になっている女の子のポスターが、トイレの前の通路には貼ってある。メニューもしなびていた。うどん、カレー、カツ丼、この3つを一緒にメニューにのせる店は信用しないことにしているが、それはもっと先の話で、当時の私は実に美味しく木の葉丼を平らげた。先輩たちはビールを飲んでいる。お前もどうだと言われたが、当時の私にはビールは苦すぎ、甘ったるいカクテルを好んで飲んでいたので遠慮しておいた。

 

店を出てバスで30分余り揺られると、岬に着いた。夏の真剣な太陽に照らされて、芝生が気持ちよさそうに一面に広がっている。岬の突端でそれは唐突に途切れ、断崖から下を覗き込むと黒い岩がゴツゴツと青黒い海から顔を出していた。そして空にはひとすじの雲を認めるのみで、切り絵の台紙のように真っ青だった。

 

岩場には、粗い階段をつたって降りていくことができた。麦わら帽子が遮り損なった光線が首筋を焼いていく。我々は5人で旅をしていたが、誰一人日焼け止めを持参している者はおらず、中にはそもそもそんなものを使うのは日本男児ではないという頑固者までいた。そんなわけでひとしきり岩場で遊んで上に戻ってきた頃には汗びっしょり、顔は真っ赤に日焼けていた。夏の陽は容易に翳らない。

 

4時だ。夕食は居酒屋で一杯やりたいが、それにはとことん体を疲れさせたほうがいいから、歩いて街まで戻ることにしようとある先輩が言った。若い我々は、当然のごとく白く乾ききったアスファルトを、もと来た道に歩き出した。最初は勢いが良かったが、その歩みも会話の内容も次第に鈍くなってゆく。なにせ一切合財の荷物を持っている上、ボストンバッグやらダッフルバッグやら長距離歩行に適した鞄できている者は少なかった。赤黒くうっ血した左手を休ませながら、鞄を持つ右手を気遣い歩く。いつの間にか陽も傾き、周囲は急速に赤く染まっていった。

 

ようやく街に着いた。空腹のせいか、腹がきりきりと絞られるように痛い。しかしくだんの先輩は重ねてこう言った。「飲む前に風呂に入るのが作法である。身を清め、また余分な水分を体から排除しなくてはならぬ」。熱い湯にぴりぴりと痛む体を預けながら、切実に水が飲みたいと思った。しかしそんなことをすればこれまでの苦労が泡になる、泡になる、と呪文のように唱えながらごわつく手ぬぐいで体を拭った。

 

たどり着いた居酒屋には、カクテルなどという姑息なものはなかった。頓着せず、生ビールを5人前注文する。シュゴー、ツ、ツ、というビールをジョッキに次ぐ音が聞こえてくる。おそらくその卓にいた者で聞こえなかった者はいないだろう。ビーチフラッグゲームのごとくジョッキをめいめいがつかむと、感極まって叫び声となった乾杯の声もそこそこに、各人ビールを喉の奥に流し込んだ。体の中を自分ではない何かが流れてゆくのがわかる。弱い泡たちが舌を刺激する。喉を滑り降りる。私も、夢中でいつの間にか苦手なはずのビールを半杯飲んでいた。

 

この日を境にビールを飲むようになった。私にとってはかなり大きな転換点だったが、いい加減な性格のせいで日付を忘れてしまった。惜しいことをした。だから、ビールが飲めないんですけどどうすればいいですかという男の子には、いつか美味く感じる時が来るという事と、それはひどく疲れた後に飲むのがよろしいと助言している。また女の子がそう言う場合は、ビール飲みたくないという暗文なので他の酒をオーダーすることにしている。

 

この後、調子に乗って飲みすぎた我々は、宿代まで飲んでしまい海岸で野宿をするはめになった。不思議と蚊に喰われなかったのはビールの神様のおかげかもしれない。ともあれ、以下はビールには関係ないので略する。